※初出/「童子」2013年10月号
両手を広げて空を仰ぐ裸体の人間が重厚な色合いで描かれた表紙、鮮血をあしらい金文字を一部使用したデザイン、そういった装丁の強烈さがまず目をひく。
革命が死語となりゆく修司の忌
帯に太いフォントで刻まれたこの句のような、社会への怒りを溜め込んだ句でこの句集は溢れているのだろうか、と手に取った人々は予想するに違いない。しかし、実際ここに描かれているのはあまりにも優しく、傷つきながらも懸命に日々を生きようとする青年の姿だ。
海色のインクで記す修司の忌
鉄球が山荘壊す修司の忌
修司忌へ修司の声を聞きにゆく
「革命が~」の句も収録された「修司忌」の二十句連作からは、寺山へのひたむきな憧れが見える。修司の作品が好きで、修司が生きた時代も好きで、修司の痕跡を知りたくて、という、せつないほどの思慕。革命という言葉も、寺山に導かれて句に登場させた側面が大きいと思われる。
修司から離れた、現代を生きる若者の自画像としての作品を見てみる。
春愁のメールに百度打つわが名
東京に見捨てられたる日のバナナ
悪口のなんと楽しき生ビール
羽蟻潰すかたち失ひても潰す
革命という言葉からはほど遠く、悪者になりきれず(悪口が楽しい、などと詠めるのは善人だけである)、自分の心のか弱さと闘うので精一杯。明日になれば僕はもう少し変われるだろうか、いや変わらなければ、と思いながらきっと彼は俳句を詠み続けているのだ。それが彼が望み、必要としている「革命」なのだ。
春霜の話を祖母はくり返す
蝉たちのこなごなといふ終はり方
秋めくやいつもきれいな霊柩車
個人的に惹かれたのは、ニュートラルな視線で死や老いを見つめた句であった。澤田の個人としての優しさや善さがどうあっても太刀打ち出来ないものを詠んだ時にこそ、彼の句は最も輝くのではないか。私にはそう思えてならない。